ポトゥア、東野健一さんのこと

2006年、京都の法然院で個展をひらいた。

きっかけは政治学者の中島岳志さんのすすめだった。まだ横浜に住んでいたころだ。深夜バスで京都にいき、当時大阪に住んでいた中島さんと合流。一緒に大学を歩き、ラーメンを食べ、本屋をめぐり、法然院にたどり着き、梶田住職とお会いした。その流れのまま数ヶ月後、個展を開催することになった。

ぼくにとっては関東以外の、しかも画廊ではない場所でひらくはじめての個展。不安もあったが、はじまってみれば、朝から日暮れまでお客さんがとぎれることのない大盛況だった。法然院はいうまでもなく京都の人気名所。国内外の観光客が、お寺や庭を見物にきがてら、ふらりとぼくの展示を見ていく。とびこみで絵を買ってくれたカナダ人の女性もいた。

それはずっと銀座の画廊で細々と個展をひらいていたぼくにとって、新鮮な驚きだった。なにより美しい庭に囲まれた会場は居心地がよく、毎日心のなかのあたらしい扉が開いて、風が通り抜けていくような心持ちになった。

会期も後半にさしかかったある日、会場にはいってきたおっちゃんが目に留まった。エスニックな服装、刺繍がはいったインドの帽子、背が高く、白髪のひげ、小麦色に焼けた肌。声をかけるまでもなく、

「若いころ貧乏旅行してどっぷりインドにはまりましたわ~」

と全身から聞こえてくるようだ。
彼は絵を一枚一枚丁寧にみてまわってから、ぼくの姿をみつけると、

「きみが矢萩多聞さん?わっかいなぁ~」

とニコニコ顔で近寄ってきた。
それが東野健一さんとの出会いだった。

インドの西ベンガル州やビハール州にはポトと呼ばれる巻物紙芝居がある。神話や民話を描いた細長い紙を、すこしずつスクロールしながら物語を語る。ときにはアドリブをいれたり、歌をうたったり、一枚の紙と身ひとつで縦横無尽にストーリーテリングをする大道の芸能だ。

東野さんは一般企業で働く会社員だったが、40歳にしてポトと出会い、西ベンガル州の少数民サンタル族から絵や技術を学び、日本人の唯一のポトゥア(紙芝居師)になった人。彼はぼくの本『インド・まるごと多聞典』を熟読していて、わざわざ神戸からきてくれた。

親子ほどの年の差もなんのその、すぐうちとけた。インドに触れた時期が同じで、民俗画が好き、興味の対象も似ていた。場所はちがえど、おたがいインドのシルクスクリーン印刷工房といろんなものをつくってきたから、いかにインド人を相手に印刷物をつくるのが大変か知っている。汗と涙の奮闘エピソードを披露しあい、わかる!わかる!と大笑いした。

サンタル族はインド社会のヒエラルキーの底辺にいる人びとだ。かつての農村では牛ふん集めなどが生業だったという。彼らは素朴で純粋なところがあるが、生き抜くためにしたたかで、はっきりしていて、あたりが強すぎる部分もあるという。

そんな人たちとともに暮らし、ポトを学んだ東野さんは、インドのキツい部分と愛すべき部分の両方を知っていて、「ほんとえらい奴らやで!」と笑いながらも、西ベンガルを第二の故郷のように想っていた。

インドで吸収したものを消化し、自ら絵描いた巻物を広げ、お客さんを巻き込みながら神戸弁で語っていく、という独自のスタイルをつくりだした東野さんには、知る人ぞ知る芸人、絵描きとして、日本全国にファンがいた。

関東で公演があるときは、ぼくも何度か見に行った。会っていない時間が長くとも、ぼくの顔をみると東野さんはオーと手を広げ、はじめて会った時とおなじように笑顔をみせた。それは、まるで遠くの国からやってきた移民が、せちがらい東京の街で、同郷人と再会するような喜びがあった。

2012年以降、京都に引っ越してからも、なにかにかこつけて東野さんを京都に呼んでポトをやってもらえないか、いつも考えていた。出町柳で「京のインド楽市」というイベントを企画したとき、ドキドキしながら東野さんに依頼の電話した。

「わ、京都ええなあ。いきたいなあ」

とふたつ返事で喜んでくれたが、あいにく同じ日程で別の公演があり、呼ぶことはかなわなかった。いま思うと、そのあともしつこく第二弾、第三弾の企画を持ちかければよかった。

しばらく間があいて、次にその名前を目にしたのは新聞の訃報記事だった。東野さんは癌を患い闘病生活を余儀なくされ、2017年の年明けに亡くなってしまった。

彼は亡くなる2ヶ月前、神戸で最後の公演をしている。体調的には辛い状態で、控え室と会場を寝たり起きたり往復し、間に他の音楽家の演奏をはさみながらも、見事ポトを演じきったそうだ。その時の映像がYouTubeで見れるが、亡くなる前の人とは思えない。

公演後、東野さんは入院したが、他の患者さんに絵を見せて元気づけたいと、院内に自分の作品を展示して、お見舞いにきた人たちをも楽しませたという。最後の最後まで、東野さんは東野さんだったのだなあ、と思う。

2018年1月、一周忌に法然院で東野さんの思い出を囲む会がひらかれた。住職の梶田さんを中心に、生前ご縁のある方たちが集まった。本堂での読経のあと、部屋を移して2009年の地蔵盆に行われた東野さんのポトの映像をみんなで見て、それぞれの思い出を語った。

印象的だったのは、みな東野さんの出会いのきっかけを不思議とよく覚えていないことだった。

「どう会ったかは忘れたけど、最初のインパクトが大きくて、一度会ったら忘れようにも忘れられない人だった」

と口々に言う。

「まだ東野さんはどこかで生きていて、旅をしながらポトをやっているんじゃないか」

という人もいる。

いつの間にかやってきて、ポトを演じ、人びとに忘れられない印象を残し、風のように去っていく。それは、村むらを歩き、その場その場の物語を語り、人びとに生きる力を与えていったポトゥアたちの姿にも重なる。

ここ数年、ぼくはインドの出版社タラブックスを日本に紹介している。それが縁となり、彼らの絵本「TSUNAMI」の日本語版をデザインすることになった。
縦長の蛇腹折りになっているこの本は、広げると巻物のような一枚の紙になる。ポトのスタイルを踏襲した造本で、紙は手漉き、印刷は手刷りのシルクスクリーン、製本ももちろん手づくりである。

タラブックスでは十年以上前から、ポトゥアの人たちとおもしろい絵本を数冊つくっているから、代表ギータ・ヴォルフさんが来日したときには、東野さんと引き合わせたいとずっと思っていた。
残念ながら、それは叶わなかった。きっと彼ならば飛びあがって面白がってくれただろう。神戸の震災を経て、東日本大震災にも心を痛めていた彼が、この本をどんなふうに語ったか。想像するだけで、胸に熱いものがこみあげてくる。

一周忌のとき、日本語版の訳者であるスラニー京子さんから、もしも、法然院にポトに詳しい人がきたら尋ねてほしいと質問リストが送られてきた。
その日は残念ながら、ポトに詳しい人はいなかったが、みんなで観た映像の中で東野さんは、ほぼすべての質問に答えてくれた。まるで十年近く前に、ぼくがここにきて、映像をみることを知っていたみたい。なにか大切なものを手渡してもらえた気がして、おもわずぽろり涙がこぼれた。

人間っておかしなものだ。いまは、東野さんが生きていたとき以上に、彼の存在を近くに感じる。ぼくは彼と対話するようにして日本語版のデザインをした。
そもそも、「TSUNAMI」というこの本そのものが、数え切れないほど多くの死者たちと対話の上に生みだされたものだ。

絵本のなかで津波は恐ろしい鬼の舌べろとして描かれているが、波にのみこまれていった人たちは、なぜかとても穏やかな顔をしている。この絵巻はかなしみをすくいにかえる、ちいさな祈りの経文のようにもみえる。

この本が無事完成したら、日本のいろんな町で「TSUNAMI」を読む会やってみたい。ぼくもにわかのポトゥアになってみたい。
お客さんをまきこみ、ダイナミックに語る東野さんのようにはかっこよくはいかないだろう。でも、百人いたら百人の「つなみ」の読み方、語り方があるはずだ。

「ええなあ、やろう!みんなでやったらええ!」

東野さんならそういってくれるような気がする。

つなみ Tsunami

ジョイデブ&モエナ・チットコル
スラニー京子訳
タラブックス+三輪舎 2018年9月10日発売