バスカールと人形の家

「この人形を操るのは2本の手と、6本の糸、3本の支柱だ。さて、3本の支柱にはどんな意味があるとおもう?」

アクセントの強い英語で早口にまくしたてられ、ぼくは呆然としていた。酸欠の金魚みたいに口をパクパクしていると、男は顔を覗きこむように首をかしげ、なおも言葉をたたみかけてくる。

「さあさあ、3本とは? インドで3ときいて、おもい浮かぶものがあるだろう? なんでもいい。いってごらん」

*

南インド、カルナータカ州を代表する伝統舞踊ヤクシャガナ。ボリューミーな衣装装飾、歌舞伎の連獅子もびっくりのド派手な化粧。パントマイム要素が強いインド舞踊のなかでもすこし異質で、演じ手が大きな声で台詞を語る。かなりお喋りな芸能だ。題材はマハーバーラタやラーマーヤナなどのヒンドゥーの大叙事詩だが、お高くとまるところがない。ドタバタの笑いあり、ホロリとくる人情話あり、大衆演劇の風情が漂っている。

そのヤクシャガナを人形で演じたものがヤクシャガナ・ゴンベヤータ。この舌を噛み切りそうに長い名まえの芸能は、数百年の歴史があるにも関わらず、ほかの芸能に比べ、不当に軽んじられてきた。

都会のバンガロールっ子に聞くと、ヤクシャガナはかろうじて知っていても、ゴンベヤータのことをちゃんと理解している人はあまりいない。

しょせんはヤクシャガナの代替。人間がやるべき舞踊を人形にやらせている子どもだましの劇というイメージがあるようだ。

かつてはぼくもそのていどにしか思っていなかった。しかし、10年以上前、川崎で開催された人形劇フェスティバルで彼らの公演を観て、そんな印象はぶっとんだ。

ちいさな舞台を縦横無尽にかけめぐる人形たちに目を奪われ、火をつかった演出に度肝をぬかれ、歌や音楽にひきこまれ、夢中になった。子どもだましなんてとんでもない、大人も子どもも同じ地平で楽しめるエンターテイメントだったのだ。

公演後、息をはずませて舞台裏にかけつけた。つたないカンナダ語で挨拶すると、彼らはぼくがヒンドゥーの結婚式を挙げた村のすぐ近くの出身ということがわかった。これもきっと何かの縁だから、次回インドにいくときは劇団を訪ねていくよ、と約束した。

だが、その約束は果たされることなく、いたずらに10年以上の歳月が経ってしまった。

2018年6月、家族でインドを訪れたとき、ふとそのことを思い出し、彼らの村を訪ねた。

カルナータカ州西海岸のクンダプール地方は、見渡すかぎりつづく椰子の林、海と川が複雑に交わる水郷地帯。大雨が降ればすぐに冠水しそうな海抜ゼロの土地に、苔と蔦に覆われた古民家がぽつぽつ建っている。

人形劇団の座長が暮らすウッピナクドゥル村はそんなところにある。ウッピは塩、クドゥルは島。つまり「塩の島」という意味だ。おそらくこのあたりに点在する中洲のことを島と呼んでいるのだろう。村のなかに塩田があるわけではないが、年寄りに聞くと、大昔には海水を汲んで塩をつくっていた、と教えてくれた。

国道から細い道にはいると、椰子林の間を縫うように田んぼが広がっている。青々とした稲葉は風に波立ち、まるで川のようだ。無人のあぜ道には、雄の孔雀が羽をすぼめ、しゃなりしゃなりと散歩している。

下校中の女学生を呼び止め、ゴンベヤータ劇団の家はどこ? と尋ねる。

ふだんはまったく足を踏み入れないであろう外国人の来訪。彼女は目を白黒させ、恥ずかしそうに教えてくれた。

「ゴンベ・マネ(人形の家)は、もっとまっすぐいったところです」

劇団でも、座長の家でもなく、人形の家と呼ばれているのがいい。

言葉通りにまっすぐ行くと、林のなかにそれらしき家があった。このあたりの典型的な古民家だが、なかなか立派な佇まいだ。門扉をあけて中にはいると、庭先に咲き乱れるハイビスカスの甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。大きな黄色いバスがとまっている。真っ赤なペンキで塗られた劇団の名前がまぶしい。文字を追うと、バンガロールのIT企業から寄付されたものとわかる。

こんにちは、と玄関に立って声をかける。しばらくして、おかみさんが顔をだし、つづいて座長ウッピナクドゥル=バスカール・コガ・カマット氏が笑顔で出迎えてくれた。

「ようこそ、ゴンベ・マネへ!」

バスカールは、日本で会ったときより、髪に白いものが増えていたが、目の輝きは少年のよう、とび跳ねるようなマシンガントークは健在だった。

彼らの劇団は、過去にパリ、ロンドンなど海外公演を重ねているが、日本滞在の思い出は特別だという。

「わたしがベジタリアンだというと、いろんな人が心配して、毎日のように果物や野菜をホテルに届けてくれました。まるでインドの田舎みたいだった。日本人の親切は忘れません。だから、ここに日本人が訪ねてくることがあったら、だれであれ歓待しようと思っていたんだよ」

劇団は450年ほど前、17世紀からはじまった。代々世襲で受け継がれ、バスカールは6代目だ。カルナータカのど田舎のニッチな芸能であったゴンベヤータを、海外の人びとに知らしめた立役者である。

「芝居しか娯楽がなかった昔とちがい、いまは映画がある。スマホがあり、YoutubeやSNSがある。それに負けたくない。スマホの画面に釘づけになっている人を、人形劇に振り向かすにはどうしたらいいか。こんな時代だからこそ、都会ではなく、村に住み、芸を追求していきたいのです」

どんなに歴史ある伝統芸能であっても、常に観客はいまの時代を生きている、眼の前の人間だ。彼は海外公演に呼ばれるたびに各国の人形劇を観て、真似できそうなことはどんどん取り込んだ。節操がない、という声もあがったが、滅びの道を選ぶくらいならば、やれることはすべてやるつもりでいる。

*

ゴンベ・マネは昔ながらの民家だが、何度も改築を繰り返したのだろう。スパイが潜めそうな小部屋がたくさんある。

赤茶色に塗られた急階段をのぼった二階は、劇団員たちの作業場。人形のほころびをひとつひとつ丁寧に直している。材料は村で調達できるものばかり。麻縄やナイロン袋、アンテナのケーブルまで、廃材を集め、再利用しているそうだ。

木でつくった人形に金や銀色のアルミ箔をはりつける糊も自家製。ジャックフルーツと蜜蝋を混ぜ固め、ガスコンロの火で熱しながら使う。

「古い人形をメンテナンスしながら使う。エコでしょう? でも、日本にいったとき、“ワリバシ“を見つけて沢山買ってきた。こんなに安くて使い勝手のよい木片、インドにはないです」

バスカール氏に促されるまま、作業場の奥にはいって、ぎょっとした。顔、顔、顔……おびただしい数の古い人形たちがうす暗い部屋の壁に吊され、こちらをじっと見ている。

「この部屋にある人形は祖父やさらに昔の人たちがつかっていたもの。この気候だとすぐカビが生えてしまうから、良い保存方法がないか、考えているのだけど……」

このあたりは海と川にはさまれた立地のため湿気がたまりやすい。興行が少ない雨季には、ここにこもって古い人形の補修をするのだとか。

「わたしは座長だけど、人形遣い、脚本家、人形作家でもある。保守メンテナンス、マネージャー、人形学校の教師、広報、劇場や庭の掃除、新聞に記事を書き、Facebookに写真をアップして、風刺漫画まで描いてる。休みはない。もう何人か自分が必要だと思うことがよくあるよ」

やりたいこと、やらなくてはいけないことが、つねに溢れに溢れて、飛び回っているのだろう。

「しかし」と彼は思い出したように言った。「それもこれも、この村に暮らしているから出来ることです。もしも、都会のビルのなかで同じことをやっていたら、わたしはあっという間に気を病んでしまうだろうね」

ぼくがバスカール氏と話している間中、おかみさんはずっと写真を撮っていた。次世代へ渡すアーカイヴのために、ここにどんな人が訪れたか、映像と写真ですべて記録している。彼らのパソコンのハードディスク3台分はそういったデータで満杯だという。

「わたしたちの人形劇は、400年以上も続いているのに、インド政府はまったく興味を持たず、なんの援助しなかった。そのかわり、5年前、インフォシス財団が支援をしてくれたんです」

インフォシスはインドを代表する民間IT企業のひとつだ。その財団がバスカール氏の劇団に多額の寄付をし、各地を公演してまわるバスを買えたし、劇場とパペット・アカデミーも建設できた。アカデミーはインド初の人形劇学校で、毎日10人から20人ほどの若者が習いにきているという。授業料は無料。貧富の区別なく、年齢、性別、宗教、職業などは不問、だれでも入学できる。

「卒業した生徒が全員人形劇団をやらなくてもいい。ふつうの人が舞踊バーラターナティヤムや、古典声楽の教室に通うように、ゴンベヤータに触れてほしい。文化というものはそういう風にひとりひとりの身体に刻み込まれて、暮らしのなかで生きていくものなのです」

村の奥にあるパペット・アカデミーを見せてもらう。美しい田園風景にかこまれた立派な建物。広々としたロビーには古い人形を展示している。数百人が座れる階段状の観客席。屋根と壁の間には風が通り抜けるように設計されていて、屋外のように涼しい。ここで使う電気は屋根に設置したソーラーパネルでまかなえるという。

すばらしい劇場ですね、とぼくがいうと、バスカール氏は笑顔で舞台の上を指さす。

カンナダ語で大きくスローガンのようなものが書かれている。彼はそれをゆっくり読み上げ、説明してくれた。

「才能はあなたのもの、劇場はみんなのもの……これは、わたしたち一家が代々大切にしてきた言葉です」

この劇場は自分たちの人形劇をやるためだけのものではない。街で活躍する歌手や有名な舞踊家以外にも、村の世界にはすばらしい才能をもった人がいる。そういった人たちを舞台にあげ、光をあてるために毎月ちいさな催しを開いている。観客と演者の関係は時には反転する。

「わたしはアーティストではない。フォークをやっているのです」

とバスカール氏は言う。「フォーク」という言葉のうまい日本語訳が見つからないが、民藝、あるいは土着といってもいいかもしれない。

手先が器用な者は人形をつくり、喉のよい者が歌を歌い、楽器を奏でられる者は音楽をやった。そうして集まった村人たちが祭のたびに人形劇を演じた。それがゴンベヤータのはじまりだ。いまも、劇団員たちはそれぞれ本業をもっていて、運転手、セールスマン、料理人などの仕事に就きながら、公演の声がかかると劇団の名のもとに集まり、舞台を立ち上げている。

「ITエンジニアでも百姓でも主婦でも子どもでも、その気になれば、だれもが人形劇をやれる。身の回りのもので、いますぐはじめられる。なぜ、君はやらないんだ?」

バスカール氏が白い歯を見せ笑う。顔の前につきだされた手が、ぼくの胸を指差しているようで、ドキッとした。

ヤクシャガナ・ゴンベヤータは、演者が人形と同じ動きをしながら操る。人形と演者の間には幕があるので、その動きは見えない。にもかかわらず、彼らは足を踏み鳴らし、跳び、踊る。まるで人形と一体化しているようだ。

「わたしたちは人形を操りながら、もっと大きなものに操られているのです。それを忘れてはいけない」

バスカール氏がぼくに何度も問答していた人形を操る「3本の支柱」は、ヒンドゥーの三位一体である神ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァだ。それぞれの支柱は人形の身体の各部分を動かす。手は創造を、頭は維持を、足は破壊、そして再生をあらわしている。

インドの古典芸能では音楽であれ舞踊であれ、「演者が自我を開放し、神の道具になること」が至上の状態と考えられている。表現者として社会や民衆に一石を投じる現代芸能の考え方とは、だいぶ違う。しかし、神の道具であるからこそ、人びとを楽しませることができる、と彼らはかたく信じている。

間口2メートルほどのちいさな舞台でくり広げられる神話の世界は、あらゆる物語のひな型だ。そこでは過去と現在、未来がむすばれ、創造と破壊がくり返されている。

椰子の実が熟れて地面に落ちるように。月が満ち欠け、潮の引いた砂浜からヒトデが顔を出すように。この土地が、人間が、ちいさな暮らしを通じて、人形劇を呼んでいるのだ。

Gombe Mane

吉田亮人×矢萩多聞写真展
at ギャラリーSUGATA ・京都
2019. 5. 28 – 6. 23