story – Ambooks https://tamon.in アムブックス Wed, 22 Jan 2020 08:33:05 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.2.9 https://i0.wp.com/tamon.in/wp-content/uploads/2019/06/cropped-logoicon.png?fit=32%2C32&ssl=1 story – Ambooks https://tamon.in 32 32 163827236 おかえり https://tamon.in/s005/ Mon, 06 Jan 2020 07:27:16 +0000 http://tamon.in/?p=5908

 うちの娘(8歳)は「男はつらいよ」が好きである。いや、ただしくは車寅次郎を愛している。

 

 いま住んでいる家はアンテナとテレビがつながっていないが、まだ娘が2、3歳だったころは、団地住まいで地上波とBSがみれた。

 ある年、BSのチャンネルで「土曜は寅さん」と題して、毎週末「男はつらいよ」を放送していた。ぼくも妻も娘にはあまりテレビを見せてこなかったが、寅さんは別格。土曜日の晩、家族三人でテレビを囲むのが定番になった。

 ふり返って考えると、これがまずかった。生まれたてのひよこが最初にみたものを親と思いこむように、娘は車寅次郎を初恋の男として認識してしまったのだ。

 娘はテレビに渥美清が映ると画面にぶちゅーとキスをする。

 画用紙とクレヨンで「男はつらいよ」の紙芝居を自作する。それも、夢のシーンからはじまり、旅先で美人のヒロインと出会い、柴又に帰ってきて、おいちゃんたちと喧嘩して家をとびだして、妹のさくらが「いかないでお兄ちゃん」と駅までおっかけてくる……という物語の定石がちゃんと再現されている。

 家族で鳥取砂丘にいったときは、何度も「男はつらいよごっこ」がくりひろげられた。もちろん娘の役は寅さん。ぼくは砂にまみれながら、砂丘を転げた。

 幼稚園で先生が子どもたちに「好きなものはなんですか?」ときいたとき、他の子が「プリキュア!」「ワンワン!」などというなか、うちの娘は迷いもせず「寅さん!」と答えたそうだ。園児たちはもちろん、若い先生はぽかん。
「動物のトラが好きなの? しまじろうではなく?」
と先生に聞かれ、
「寅さんは寅さんでしょ!」
とご立腹の娘。彼女にとって、寅さんはまぎれもない永遠のアイドルなのだ。

 BSの放送が終わってからは、録画した全49作を何周もくり返し見る日々が続いた。

 しかし、「男はつらいよ」ばかり見せているのはよくない、と思ったぼくは、マキノ雅弘監督の名作「次郎長三国志」シリーズを娘と一緒に見た。渡世人・寅さんがなぜあんな生き方、立ちふる舞いをしているのか、そのルーツともいえる次郎長一家の物語は「男はつらいよ」の次に見るべき映画だと思ったからだ。

 はじめは白黒映画に
「なんで色ついてないの?」
といっていた娘だったが、一本見終わるころには、次郎長とそのゆかいな仲間たちが奮闘する旅股任侠活劇にすっかりはまり、テレビをつけるたび、寅さんと次郎長を交互に見たいとねだる三歳児になってしまった。

 彼女のお気に入りは森繁久彌演じる森の石松。幼稚園の園庭の砂場で
「バカは~しななきゃなおらない~♪」
と浪曲師・広沢虎造のだみ声を真似して遊ぶ姿に、先生たちはさらに心配したことだろう。

 そんな彼女に一世一代というべき晴れ舞台がまわってくる。友人の結婚で沖縄に招かれたとき、式の余興として「男はつらいよ」の口上と歌を披露することになったのだ。

 せっかくだから、帽子やカバンを用意して寅さんの姿でやったら?とぼくが提案すると、彼女はぶんぶんと頭をふった。

 「恥ずかしくてできない」

 たくさんの人の前でやるから恥ずかしいのかと思ったら、そうではない。彼女にとって寅さんは実在の人物でいまも日本全国を旅している。結婚式場に旅の途中の寅さんが立ち寄ることがあるかもしれない。自分の姿を本物の寅さんに見られたら恥ずかしい、というのだ。

 ぼくは娘の寅さんへのまっすぐすぎる愛に脱帽した。

 それ以来、わが家では車寅次郎が実在するか否かは、サンタクロースよりもセンシティブな話題となった。

 

 じつは、ぼくも個人的に「男はつらいよ」には少なからぬご縁と親近感をかんじてきた。

 

 「男はつらいよ」誕生秘話には諸説あるが、当初、山田洋次監督は物語の舞台をどこにするか選びあぐねていた。

 だが、かつて彼がつくった映画「下町の太陽」の原作者である作家・早乙女勝元さんに、柴又帝釈天やだんご屋を案内してもらい、いろいろな下町話を聞いたことを思い出し、舞台を柴又に決定したそうだ。

 柴又の町を歩きながら二人がどんな話をしたのかは、いまとなってはわからない。だが、だんご屋の隣に活版印刷所があり、隣人のタコ社長が勝手口から毎日やってくるという設定も、このとき生み出されたのでは、とぼくは想像している。

 世間ではほとんど知られていないことだが、早乙女さんの義理の父は横浜の印刷所、野毛印刷の社長である。この人は戦中一旗あげるべく単身大陸に渡り、戦後シベリア抑留を経て帰国、社会主義にかぶれたアカと揶揄されながらも、類い希なる商才を発揮し一代にして印刷所を興した。とても博学で先進的、親戚一同からは「山の叔父さん」と呼ばれ尊敬されていた。

 それだけの反骨精神とバイタリティで戦中戦後を生きぬいた山の叔父さんのことを、早乙女さんが山田監督に話さないということは考えづらい。映画のなかで、タコ社長はデリカシーがなく、すぐのぼせあがる零細町工場のオヤジというキャラクターになってはいるが、もしかするとその着想のもとは野毛印刷の社長だったかもしれない。

 なんでそんな細かい裏話を持ち出したかというと、じつはこの野毛印刷社長はぼくの祖母のいとこなのである。

 遠い親戚とはいえ、子どものころ祖母につれられ墓参りにいくと、曾祖父母や先祖代々の墓のあと、野毛印刷社長の墓にかならず連れて行かれた。

 「山の叔父さんはほんとうに頭の良い人だったから、タモちゃんもあやかりなさい」

 墓前で祖母はいつも線香の煙を手でふわふわとぼくの頭に送ってくれた。
大人になって、早乙女さんと山田監督の話を知ってからというもの、タコ社長やその印刷所をみるたびに、ぼくの先祖と寅さんの物語はつながっているかもしれない、と勝手に胸の奥を温めていた。

 

 さて、前置きがやたらながくなったが、ここからが本題。

 2019年の年末、「男はつらいよ」の新作が公開された。49作目で終わったはずのシリーズが22年ぶりに復活するのだから、ファンとしては喜ばずにはいられないニュースだが、ぼくは微妙な気持ちでいた。

 渥美清さん亡きいま、寅さんの不在はどう描かれるのか。ぼくも妻も、渥美清が亡くなったことは娘にずっと言えないでいる。だからどんなにせがまれても、実際に柴又を訪れることだけは避けてきた。
50作目のサブタイトルは「おかえり、寅さん」。4Kデジタルリマスターした過去の映像を交え、現代を生きるさくらや満男のその後を描いた作品だという。

 万が一、劇中で仏壇に寅さんの遺影があったり、あんないい人だったのに死んじゃったね、みたいなシーンがあったらヒジョーにまずい。

 なにせテレビ版「男はつらいよ」最終回では、ハブに噛ませ寅次郎を死なせた山田洋次監督だ。なにをしでかすかわからない。妻と協議した結果、まず、ぼくひとりで観て確認した上で娘を連れて行こう、ということになった。

 2020年1月1日元旦、映画館へ向かう。

 「男はつらいよ」はかつて日本のお正月映画の定番。今回の新作を見るならばぜったい元旦だ、と心に決めていた。客席は満席ではないが、50~70歳代を中心に8割ほど埋まっている。

 映画がはじまり、松竹の富士山がスクリーンに映し出された時点で、不覚にもうるっとしてしまった。松竹配給の日本映画を映画館でみるなんて、いつぶりだろう。

 オープニングでおなじみのテーマ曲を河原の土手で桑田佳祐が歌う。なんでこいつが……と思いながらも、スクリーンに大映しになった寅さんを見た瞬間、涙がどわっとあふれてしまった。まだ物語ははじまってもないのに。

 その後はもうだだ漏れ。懐かしい人たちがつぎつぎとスクリーンに現れ、くるまやの居間に集まり、寅さんの思い出話をする。

 この映画をはじめて見た人が楽しめる内容かはわからない。それでも、49作をくり返し見てきた者にとっては、盆暮れが同時にきたようなうれしいシーンの大盤振る舞い。財布を逆さにふってもなんもでねえが、涙と鼻水は売るほどあるんだぜ、とよくわからないことを口走ってしまうほど、泣き、笑い、震える。

 CG合成で幽霊のように寅さんが浮かんだり消えたりするシーンはちょっとやりすぎだと思ったが、さくらはいつ兄が帰ってきてもいいように、二階を片付けている、とつぶやく。だれも寅さんが死んだとはいわない。ほっとした。これならば、わが娘にもみせられる。

  「おかえり、寅さん」。これは再会と不在の物語だ。

 20年以上の時を経て、家族や仲間が再会し集まって、団欒をかこむ。最初はしわしわに老けたなぁと思って見ていた登場人物たちが、若いときの口調に戻っていく。小学校の同級生に会うと、当時の歳に戻ってしまうような、あの感覚にも似ている。

 そこには不在の人もいる。おいちゃん、おばちゃんは仏壇の額縁のなかで微笑んでいるし、かのタコ社長はあがりかまちに腰かけてはいない。

 だが、不在の人たちがいいそうな台詞を、生きているほかの人たちが無意識に口にする。タコ社長の娘のアケミちゃんは、タコばりにデリカシーなくのぼせあがるし、妻思いだったひろしがおいちゃんのようなふてぶてしさを見せる。さくらはおばちゃんのようにいつも夕食や布団のことを気にしている。満男は寅さんだったらどうするかということを考えているし、その一人娘ゆりちゃんは、寅さんをやさしくたしなめる若いころのさくらそっくりだ。

 死者たちは不在なのではなく、生者たちのなかに生きている。むしろ、死者たちが大小のかけらとなって、生者をかたちづくっているといってもいい。AIでもCGでもなく、生者たちの口から語られるからこそ意味がある。

 

 それは昨年11月に母を亡くしたぼくには、切実でリアルな感覚として、ずんずんと胸に迫ってきた。
母とぼくの娘はまるで鏡のようだ。

 のりものにのるとおしゃべりになるところ。買い物好きでいつも誰かにプレゼントするものを探しているところ。いったん思いこむとまわりの声が耳にはいらなくなるところ。だれとでもすぐ友だちになってしまうところ。……親子であるぼくよりも、祖母と孫である娘のほうが性格が似ている。

 いまも、娘が話すことばや、しぐさ、ちょっとしたリアクションから、亡き母を思い出すことがよくある。

 おおきな事件は起きない。はり巡らされた伏線もない。たんたんとみなが寅さんについて思い出話をする。それだけなのに、映画館から家にむかう帰り道、胸がぽかぽかする。ふしぎな作品だ。
「おかえり、寅さん」という副題のとおり、22年間、寅さんはスクリーンに不在だった。しかしそれは煙のように消えてなくなったわけではなく、ぼくら自身が見失っていただけだ。

 そういえば、娘が3、4歳のころ、鴨川の河川敷で寅さんの後ろ姿をみかけた、といっていた。

 いまもあらゆる町角に、河原の土手に、縁日の神社に、駅のホームに、寅さんはいる。もう一度それを見つけるためにも、また過去49作品を親子で見返そうと思った。

 これはまったくの余談だが、この「男はつらいよ」第50作目の劇中、個人的に震えまくった箇所がある。

 小説家になった満男が書店でサイン会をするシーン。ロケ場所は八重洲ブックセンター。ここで多くの観客は、満男とかつての初恋相手・泉ちゃんの再会に固唾をのむとおもうが、ぼくの目はその背後の書棚に釘づけになった。自分が装丁して文章も書いた本が映っている! 驚きのあまり気が動転して、すこしの間ストーリーがまったく頭に入らなくなった。

 物語とはまったく関係がないし、カメラのピントがばっちり合っているわけではないのだが、大好きな映画のなかに、自分がつくった本が存在しているなんて光栄の至りである。(どの本なのかはここで書かない。ぜひ劇場の大画面で確認してほしい)

 ありがとう八重洲ブックセンター! ありがとう山田洋次監督!

 元旦からすばらしいお年玉をもらいました。

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いつも声を聞きながら https://tamon.in/s004/ Mon, 30 Dec 2019 16:40:04 +0000 http://tamon.in/?p=5896

 人の声が好きだ。仕事机に向かうときは、いつもラジオか音楽をかけている。歌詞のある曲やおしゃべりを聞きながら文章は書けないが、デザインや絵は脳の違う部分が動いているのか、人の声が耳にはいったほうが調子がいい。
ときには、ことばにひっぱられたり、励まされたり、気持ちが高揚したりする。でも、作業に集中していると、ことばの意味はまったく耳に入らなくなる。屋根に響く雨音みたい。ただそこに降っているだけ。

 かつて訪れたとある印刷所に、かろうじて遺された活版印刷部があった。大きな印刷機を前に、長老のような職人さんがひとり。タバコをスパスパ吸いながら、恐ろしいスピードで版を組んでいる。うす暗い部屋には裸電球が灯り、机に散乱する活字、ただよう紫煙、ラジオからは野球中継。これぞ昭和の男の仕事場! まるで映画のワンシーンのようだった。

 印刷所にかぎらず、紙工房や製本所など、ものづくりの現場で、ラジオがかかっていたのを覚えている。テレビはなくてもいいが、ラジオがなくなったら困るという人は多いはずだ。
どうしても聞かなきゃならない内容ではないのに、かけていないともの寂しい。思いがけず、はっとさせられることもある。その存在感は本ともすこし似ている。

 ぼくは本をデザインするとき、下書きやラフスケッチにとりかかる前に、まずその本のテーマ曲を探すようにしている。

 たとえば、1920年代アメリカを取り上げた社会学の本ならば、その時代につくられた曲を聞く。アフリカのエスノグラフィーの本ならば、フィールドとなっている国の音楽を聞く。小説やエッセイでも同じ。邦楽、洋楽、中央アジアのハードロック、イスラエルのポップス、戦前日本の歌謡曲、中南米のカリプソ、北欧のヨイクまで、節操もなくかたっぱしから聞きまくり、本にあう音が見つかるまで、地球を何周もする。

 映画のイントロで、音楽が映像の糸口をたぐりよせるように、音楽を聞きながら手を動かしていると、おぼろげだった本のかたちが輪郭をおびてくる。自然とページの構成が見え、レイアウトが生み出される。
逆に色や書体や紙の手触りから音を感じることもある。そういう意味では、常になにかを聞きながら仕事をしているのだ。

 横浜の実家の近所にラーメン屋がある。子どものころ、「外食」といえばだいたいこの店だった。
昨今のラーメンブームとは無縁。醤油香る澄んだ油スープ、ちぢれた細麺、きざみネギ、メンマ、ナルト、チャーシュー……という昔懐かしのラーメンを「しなそば」という呼び名で、愚直に提供しつづけている。特別なものはなにひとつないが、ときどき無性に食べたくなる。

 店主はラーメンと同じく多くを語らず、いつも黙々と中華鍋をふるっているが、お客さんが会計を終え店をでるとき、きまって厨房の奥からガオーと吠える。

「ありがとうございました」

 といっているようだが、50音ではどうにも表現できない。
アルファベットならばすべての子音にHの音と、濁音が混ざってるような独特の発声。やはり「吠える」というほかない。
気密性の高い部屋のドアを開けたとき、ブワーッと外の空気が流れこむように、厨房の方から、巨大なうなぎのかたちをした音のかたまりが吹き抜ける。
ラーメンを食べたあと、その声に背中をにゅるっと押し出され、店を出て、暗い夜道をてくてく家に帰る。すっかりあったまったからだに、夜風がきもちいい。
そのひとつながりが、ぼくにとっての「ラーメン」という体験だと思っている。

 1日3時間。日本人がスマホの画面を見ている平均時間だそうだ。

「インド映画って長いんでしょ?」

 と半笑いで訊かれることがよくあるが、そんなこという人たちが、こま切れであれ、長めのインド映画を一本観るくらいの時間をスマホに費やしている。年間に換算すると1095時間、じつに45日間の時間を捧げているのだ。
スマホを辞めたら、年間1ヶ月半分の日々が有意義に過ごせる!とは思わないが、この十年ほどでぼくらは「ちいさな画面を見ること」に多くの時間を割くようになったのは確かなことだ。

 スマホの画面で見ることと、生の眼で見ることは、同じようでいて、まったく別の体験のように思える。

 たとえば、ぼくは毎月京都と東京を新幹線で行き来しているが、その車窓から外を眺めるのはひそかな楽しみのひとつである。
マッチ箱のように立ち並ぶ建売住宅、いいぐあいに錆びくたびれた工場、農道にのろのろ走る軽トラック、山のなかのぽつんと一軒家……飛ぶように目の端に流れていく風景をみながら、一瞬にして、そこでどんな人たちがどう暮らしているのか考える。
公園で遊ぶ子を見守るお母さん、立派な瓦葺の屋敷の庭でひとり佇むおじいさん、駐車場の自販機で缶コーヒー片手に一服するお兄さん。ひとりひとりの物語について想像しているうちに、新幹線はあっという間に東京についてしまう。

 映像にせよ、写真にせよ、それをスマホで撮って、あとで見返したとて、おなじように想像をふくらませ遊ぶことはできるだろうか。たぶんできない。やってみるまでもなく、それらはおそろしく「映えない」ものになるだろう。「いいね」も「シェア」もしてもらえない。

 ぼくがラジオを好きで、街の雑踏や、電車で見知らぬ人たちの話し声に、つい耳をすましてしまうのは、その響きや声のしぐさからいろんなことが想像できるからだ。それは往々にして語られたことばの意味よりも味わい深い。

 つぶやきや発音、呼吸、ときには沈黙でさえ、なんて豊かなものを、この世界は用意してくれたのだろうとおもう。

 なんてことのない人間や自然の動作に、赤ん坊がじっと見入って、たのしそうに笑っているように、ぼくもずっと声を聞いていたい。

本とこラジオ

本をめぐって西へ東へ。
2019.12.31 大晦日、
一夜限りのインターネットラジオを配信します。
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バスカールと人形の家 https://tamon.in/s003/ Tue, 04 Jun 2019 07:01:04 +0000 http://tamon.in/?p=5025

「この人形を操るのは2本の手と、6本の糸、3本の支柱だ。さて、3本の支柱にはどんな意味があるとおもう?」

アクセントの強い英語で早口にまくしたてられ、ぼくは呆然としていた。酸欠の金魚みたいに口をパクパクしていると、男は顔を覗きこむように首をかしげ、なおも言葉をたたみかけてくる。

「さあさあ、3本とは? インドで3ときいて、おもい浮かぶものがあるだろう? なんでもいい。いってごらん」

*

南インド、カルナータカ州を代表する伝統舞踊ヤクシャガナ。ボリューミーな衣装装飾、歌舞伎の連獅子もびっくりのド派手な化粧。パントマイム要素が強いインド舞踊のなかでもすこし異質で、演じ手が大きな声で台詞を語る。かなりお喋りな芸能だ。題材はマハーバーラタやラーマーヤナなどのヒンドゥーの大叙事詩だが、お高くとまるところがない。ドタバタの笑いあり、ホロリとくる人情話あり、大衆演劇の風情が漂っている。

そのヤクシャガナを人形で演じたものがヤクシャガナ・ゴンベヤータ。この舌を噛み切りそうに長い名まえの芸能は、数百年の歴史があるにも関わらず、ほかの芸能に比べ、不当に軽んじられてきた。

都会のバンガロールっ子に聞くと、ヤクシャガナはかろうじて知っていても、ゴンベヤータのことをちゃんと理解している人はあまりいない。

しょせんはヤクシャガナの代替。人間がやるべき舞踊を人形にやらせている子どもだましの劇というイメージがあるようだ。

かつてはぼくもそのていどにしか思っていなかった。しかし、10年以上前、川崎で開催された人形劇フェスティバルで彼らの公演を観て、そんな印象はぶっとんだ。

ちいさな舞台を縦横無尽にかけめぐる人形たちに目を奪われ、火をつかった演出に度肝をぬかれ、歌や音楽にひきこまれ、夢中になった。子どもだましなんてとんでもない、大人も子どもも同じ地平で楽しめるエンターテイメントだったのだ。

公演後、息をはずませて舞台裏にかけつけた。つたないカンナダ語で挨拶すると、彼らはぼくがヒンドゥーの結婚式を挙げた村のすぐ近くの出身ということがわかった。これもきっと何かの縁だから、次回インドにいくときは劇団を訪ねていくよ、と約束した。

だが、その約束は果たされることなく、いたずらに10年以上の歳月が経ってしまった。

2018年6月、家族でインドを訪れたとき、ふとそのことを思い出し、彼らの村を訪ねた。

カルナータカ州西海岸のクンダプール地方は、見渡すかぎりつづく椰子の林、海と川が複雑に交わる水郷地帯。大雨が降ればすぐに冠水しそうな海抜ゼロの土地に、苔と蔦に覆われた古民家がぽつぽつ建っている。

人形劇団の座長が暮らすウッピナクドゥル村はそんなところにある。ウッピは塩、クドゥルは島。つまり「塩の島」という意味だ。おそらくこのあたりに点在する中洲のことを島と呼んでいるのだろう。村のなかに塩田があるわけではないが、年寄りに聞くと、大昔には海水を汲んで塩をつくっていた、と教えてくれた。

国道から細い道にはいると、椰子林の間を縫うように田んぼが広がっている。青々とした稲葉は風に波立ち、まるで川のようだ。無人のあぜ道には、雄の孔雀が羽をすぼめ、しゃなりしゃなりと散歩している。

下校中の女学生を呼び止め、ゴンベヤータ劇団の家はどこ? と尋ねる。

ふだんはまったく足を踏み入れないであろう外国人の来訪。彼女は目を白黒させ、恥ずかしそうに教えてくれた。

「ゴンベ・マネ(人形の家)は、もっとまっすぐいったところです」

劇団でも、座長の家でもなく、人形の家と呼ばれているのがいい。

言葉通りにまっすぐ行くと、林のなかにそれらしき家があった。このあたりの典型的な古民家だが、なかなか立派な佇まいだ。門扉をあけて中にはいると、庭先に咲き乱れるハイビスカスの甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。大きな黄色いバスがとまっている。真っ赤なペンキで塗られた劇団の名前がまぶしい。文字を追うと、バンガロールのIT企業から寄付されたものとわかる。

こんにちは、と玄関に立って声をかける。しばらくして、おかみさんが顔をだし、つづいて座長ウッピナクドゥル=バスカール・コガ・カマット氏が笑顔で出迎えてくれた。

「ようこそ、ゴンベ・マネへ!」

バスカールは、日本で会ったときより、髪に白いものが増えていたが、目の輝きは少年のよう、とび跳ねるようなマシンガントークは健在だった。

彼らの劇団は、過去にパリ、ロンドンなど海外公演を重ねているが、日本滞在の思い出は特別だという。

「わたしがベジタリアンだというと、いろんな人が心配して、毎日のように果物や野菜をホテルに届けてくれました。まるでインドの田舎みたいだった。日本人の親切は忘れません。だから、ここに日本人が訪ねてくることがあったら、だれであれ歓待しようと思っていたんだよ」

劇団は450年ほど前、17世紀からはじまった。代々世襲で受け継がれ、バスカールは6代目だ。カルナータカのど田舎のニッチな芸能であったゴンベヤータを、海外の人びとに知らしめた立役者である。

「芝居しか娯楽がなかった昔とちがい、いまは映画がある。スマホがあり、YoutubeやSNSがある。それに負けたくない。スマホの画面に釘づけになっている人を、人形劇に振り向かすにはどうしたらいいか。こんな時代だからこそ、都会ではなく、村に住み、芸を追求していきたいのです」

どんなに歴史ある伝統芸能であっても、常に観客はいまの時代を生きている、眼の前の人間だ。彼は海外公演に呼ばれるたびに各国の人形劇を観て、真似できそうなことはどんどん取り込んだ。節操がない、という声もあがったが、滅びの道を選ぶくらいならば、やれることはすべてやるつもりでいる。

*

ゴンベ・マネは昔ながらの民家だが、何度も改築を繰り返したのだろう。スパイが潜めそうな小部屋がたくさんある。

赤茶色に塗られた急階段をのぼった二階は、劇団員たちの作業場。人形のほころびをひとつひとつ丁寧に直している。材料は村で調達できるものばかり。麻縄やナイロン袋、アンテナのケーブルまで、廃材を集め、再利用しているそうだ。

木でつくった人形に金や銀色のアルミ箔をはりつける糊も自家製。ジャックフルーツと蜜蝋を混ぜ固め、ガスコンロの火で熱しながら使う。

「古い人形をメンテナンスしながら使う。エコでしょう? でも、日本にいったとき、“ワリバシ“を見つけて沢山買ってきた。こんなに安くて使い勝手のよい木片、インドにはないです」

バスカール氏に促されるまま、作業場の奥にはいって、ぎょっとした。顔、顔、顔……おびただしい数の古い人形たちがうす暗い部屋の壁に吊され、こちらをじっと見ている。

「この部屋にある人形は祖父やさらに昔の人たちがつかっていたもの。この気候だとすぐカビが生えてしまうから、良い保存方法がないか、考えているのだけど……」

このあたりは海と川にはさまれた立地のため湿気がたまりやすい。興行が少ない雨季には、ここにこもって古い人形の補修をするのだとか。

「わたしは座長だけど、人形遣い、脚本家、人形作家でもある。保守メンテナンス、マネージャー、人形学校の教師、広報、劇場や庭の掃除、新聞に記事を書き、Facebookに写真をアップして、風刺漫画まで描いてる。休みはない。もう何人か自分が必要だと思うことがよくあるよ」

やりたいこと、やらなくてはいけないことが、つねに溢れに溢れて、飛び回っているのだろう。

「しかし」と彼は思い出したように言った。「それもこれも、この村に暮らしているから出来ることです。もしも、都会のビルのなかで同じことをやっていたら、わたしはあっという間に気を病んでしまうだろうね」

ぼくがバスカール氏と話している間中、おかみさんはずっと写真を撮っていた。次世代へ渡すアーカイヴのために、ここにどんな人が訪れたか、映像と写真ですべて記録している。彼らのパソコンのハードディスク3台分はそういったデータで満杯だという。

「わたしたちの人形劇は、400年以上も続いているのに、インド政府はまったく興味を持たず、なんの援助しなかった。そのかわり、5年前、インフォシス財団が支援をしてくれたんです」

インフォシスはインドを代表する民間IT企業のひとつだ。その財団がバスカール氏の劇団に多額の寄付をし、各地を公演してまわるバスを買えたし、劇場とパペット・アカデミーも建設できた。アカデミーはインド初の人形劇学校で、毎日10人から20人ほどの若者が習いにきているという。授業料は無料。貧富の区別なく、年齢、性別、宗教、職業などは不問、だれでも入学できる。

「卒業した生徒が全員人形劇団をやらなくてもいい。ふつうの人が舞踊バーラターナティヤムや、古典声楽の教室に通うように、ゴンベヤータに触れてほしい。文化というものはそういう風にひとりひとりの身体に刻み込まれて、暮らしのなかで生きていくものなのです」

村の奥にあるパペット・アカデミーを見せてもらう。美しい田園風景にかこまれた立派な建物。広々としたロビーには古い人形を展示している。数百人が座れる階段状の観客席。屋根と壁の間には風が通り抜けるように設計されていて、屋外のように涼しい。ここで使う電気は屋根に設置したソーラーパネルでまかなえるという。

すばらしい劇場ですね、とぼくがいうと、バスカール氏は笑顔で舞台の上を指さす。

カンナダ語で大きくスローガンのようなものが書かれている。彼はそれをゆっくり読み上げ、説明してくれた。

「才能はあなたのもの、劇場はみんなのもの……これは、わたしたち一家が代々大切にしてきた言葉です」

この劇場は自分たちの人形劇をやるためだけのものではない。街で活躍する歌手や有名な舞踊家以外にも、村の世界にはすばらしい才能をもった人がいる。そういった人たちを舞台にあげ、光をあてるために毎月ちいさな催しを開いている。観客と演者の関係は時には反転する。

「わたしはアーティストではない。フォークをやっているのです」

とバスカール氏は言う。「フォーク」という言葉のうまい日本語訳が見つからないが、民藝、あるいは土着といってもいいかもしれない。

手先が器用な者は人形をつくり、喉のよい者が歌を歌い、楽器を奏でられる者は音楽をやった。そうして集まった村人たちが祭のたびに人形劇を演じた。それがゴンベヤータのはじまりだ。いまも、劇団員たちはそれぞれ本業をもっていて、運転手、セールスマン、料理人などの仕事に就きながら、公演の声がかかると劇団の名のもとに集まり、舞台を立ち上げている。

「ITエンジニアでも百姓でも主婦でも子どもでも、その気になれば、だれもが人形劇をやれる。身の回りのもので、いますぐはじめられる。なぜ、君はやらないんだ?」

バスカール氏が白い歯を見せ笑う。顔の前につきだされた手が、ぼくの胸を指差しているようで、ドキッとした。

ヤクシャガナ・ゴンベヤータは、演者が人形と同じ動きをしながら操る。人形と演者の間には幕があるので、その動きは見えない。にもかかわらず、彼らは足を踏み鳴らし、跳び、踊る。まるで人形と一体化しているようだ。

「わたしたちは人形を操りながら、もっと大きなものに操られているのです。それを忘れてはいけない」

バスカール氏がぼくに何度も問答していた人形を操る「3本の支柱」は、ヒンドゥーの三位一体である神ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァだ。それぞれの支柱は人形の身体の各部分を動かす。手は創造を、頭は維持を、足は破壊、そして再生をあらわしている。

インドの古典芸能では音楽であれ舞踊であれ、「演者が自我を開放し、神の道具になること」が至上の状態と考えられている。表現者として社会や民衆に一石を投じる現代芸能の考え方とは、だいぶ違う。しかし、神の道具であるからこそ、人びとを楽しませることができる、と彼らはかたく信じている。

間口2メートルほどのちいさな舞台でくり広げられる神話の世界は、あらゆる物語のひな型だ。そこでは過去と現在、未来がむすばれ、創造と破壊がくり返されている。

椰子の実が熟れて地面に落ちるように。月が満ち欠け、潮の引いた砂浜からヒトデが顔を出すように。この土地が、人間が、ちいさな暮らしを通じて、人形劇を呼んでいるのだ。

Gombe Mane

吉田亮人×矢萩多聞写真展
at ギャラリーSUGATA ・京都
2019. 5. 28 – 6. 23
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「ちとらや」という実験 https://tamon.in/s002/ Wed, 01 Aug 2018 02:55:13 +0000 http://tamon.in/?p=4683

数えてみたら、もう三年もやっている。子どもと絵の家「ちとらや」のことだ。

長く続けているわりには、いまだにこの活動をうまく説明できない。
月一度、子どもたちと1、2時間かけて山を歩き、30分ほど絵をかく。山頂でお弁当をたべて、森で遊び、下山する。やることはそれだけ。

この会は、いわゆるお絵かき教室とは異なり、「絵がうまくなる」ことを目的にしていない。それどころか、絵を描きたくないときは描かなくてもいい。絵筆を持たず、ただ森で遊んでいるだけ子もいる。

毎回手を変え品を変え、ゆかいなお題を用意するが、基本的に何を描くか、子どもたちに託されている。大人は一切口出しはしない。
たまに「絵の才能を伸ばしてあげたい」と思ってわが子を連れてくる人もいるが、ぼくの「なにも教えない姿勢」にぽかんとすることになる。

ぼくは講師役を演じない。子どもたちに絵の具や紙を配って、いいね、いいね、もっと描いて!と誉めはやすだけ。お調子者のたいこもちみたい。
それなら、自分の家で描いても同じじゃない? と思う人もあるだろう。でも、ここでしか描けない絵が生まれる瞬間が確かにある。それを目撃したいがためにここまでやってきた気もする。

ちとらやをはじめたのは2014年。

うちの娘は1歳前から、紙を渡すと、何枚でも飽きずに絵をかいていた。しかし、3歳ごろから幼稚園に通いだし、様子が変わった。

紙の上には、女の子、お花、四角と三角の家などが記号的なやり方で描かれ、お日さまがニコニコ顔でこちらを見下ろしている。以前はそんなことなかったのに、白い紙を前にして「○○は描けない」「うまく描けない」と口を尖らせるようになった。

母の日に幼稚園でお母さんの絵を描く時間があったが、娘だけがガンとして絵筆をとらなかったそうだ。

「お母さんはどんな顔している? おめめ、おくち、おみみがあって……よく思い出して描いて、と言ったのだけど、イヤっていうんです。絵が好きではないのかしら?」
担任の先生が困り顔で訴えてくる。

どうであれ、本人がやりたくない時は無理に描かせないでください、とお願いしたが、これはまずいことになってきているぞ、と思いはじめた。

母の日に母親の顔を描いてプレゼントするということが、当たり前に行われているが、ほんとうはそんなもの描かかなくてもいい。

わき目もふらず、野原を一直線に走りきるように一本の線をかく。危なっかしく鉄棒にぶら下がり回るように、ぴゅるんと丸をかく。それこそが日々成長をつづけるいのちの躍動を切り取ったものだ。「表現」なんて言葉を持ち出さずとも、子どもは絵の本質を知っている。

親ならば、子が描いた線一筋のなかに、なにものにもかえられぬ美しさを見いだすことができるはずだ。
絵は、うまい、へたなどという客観的な評価に閉じこめられるものではない。
どんな巨匠が描いた作品でもピンとこないものはピンとこないし、子どもがノートのきれはしに描いたいたずらがきだって、かけがえのない宝物になりうる。
それが「芸術」とよばれるものの本質だし、救いだと思っている。

ある日、娘と一緒に大文字山を山頂まで登った。往復3、4時間はかかる山道で、3歳児にとっては相当ハードだったはずだが、彼女は帰宅するなり、スケッチブックを開き、猛烈ないきおいで絵を描いて描いて描きまくった。

記号化された描き方はどこへやら、線は踊り、色はほとばしり、生身のいのちそのものが、つぎつぎ紙の上に広がり、植物のように伸びていく。山登りを通して、彼女のからだのなかでなにかが動いたのは明らかだった。

それ以来、ぼくは娘と山や森を歩き、絵を描く時間をもつようにした。そのうち興味を持ってくれる他の子どもたちも合流して、毎月定期的に山に登って絵を描く活動「ちとらや」がはじまった。

ふだん、ぼくらは平地に暮らしている。家の中も外もおしなべて平たい。一方、山では道なき道をよろけながら進み、転げ落ちるようにして坂を駆け降る。この足場の不安定がからだに効く。平たい都市生活に馴染んだ体幹が、でこぼこの山を歩いているうちに補正される。子どものからだに潜む本能的な力が、絵に作用している。そのことに気がつくまでに時間はかからなかった。

参加者のなかにMちゃんという小学生一年生の男の子がいる。彼とは三歳ぐらいから、一緒に山を歩き絵を描いてきたが、なかなか用意したお題に沿って描いてはくれない。

「おれ、描くもんきまってん」

が口癖で、来る日も来る日も車の絵ばかり描く。みんなが池の亀や、森の木や鹿を描いていても、彼のスケッチブックにはきまって車が走ってる。

そんなことを一年ほど繰り返して、これでいいのだろうか、と真剣に悩んだ。「車以外も描いてみようよ」「車の絵を描いてもいいから、お題の絵を一枚は描こうよ」彼にどんな言葉を投げかけたらいいのか。

考えあぐねたぼくは、これまでMちゃんが描きためたスケッチブックを改めてはじめからよくよく見返してみた。

すると、驚くべきことがわかった。彼の描く車には、ひとつとして同じ車はないのだ。初夏は青々とした新緑。夏は強い日差しと水辺の光、秋は赤く染まった木葉、やさしい木漏れ日。冬のからからの木々、曇天の雲からさしこむ薄い光。春の花々のむせかえるような艶やかさ……ぼくらが山を歩いて目にした美しさや色や発見が、ひとつひとつの車にぎゅぎゅっとこめられていた。

その日からぼくの迷いはなくなった。どうであれ、子どもが描きたいものを描けばいい。どんなものを描くかではなく、子どもたちが目の前の世界をどう見ているのか。そっちのほうが面白い。

それは時には、絵として描かれないこともあるだろう。だが、絵筆を持たない時間にも、子どもたちはなにかを描いているはずだ。

「ちとらや」は、サンスクリット語のチトラ(絵)とアラヤ(家)をつなげた造語だ。チトラ(絵)はチット(心)とラーガ(旋律)をつなげた言葉とも言われている。

ぼくが子どものとき、絵を描いている時間だけは、見えない家に守られているような、心穏やかな気持ちでいれた。そんな時間をすごすことができたらいいな、という願いをこめて、この名前をつけた。ちとらやの元で描かれた絵に不正解なものは何一つない。

この活動は、ぼくにとっては世界の豊かを実証する実験のようなものだ。

一見、なんでもないようなちいさな事柄が、編み目状になって、いのちのごく深いところでつながっている。

うまくいくこと、いかないこと、まるごとの場で生み出される作品たちは、昨日今日ではとらえることのできない輝きをもっている。もしかすると、子どもたちがおじいさんになって死ぬ直前にならないとわからないようなこともあるかもしれない。

言葉でも絵でも、咀嚼する暇もないスピードで、するすると短絡的に消化されてしまういまの時代に、彼らが描く絵は、飲み込みきれない多くの物語をふくんでいるような気がする。いつの日かみんなで紙の本にまとめてみようと思っている。

何千年も前につくられた神話が、いまも世界中でさまざまにかたちを変えて語り継がれているように、この場所から現代の神話を編んでみたい。

ちとらや

Chitraya

善きものはかたつむりの歩みで進む
あせらず、ゆっくり、できることから――
子どもと絵の家「ちとらや」

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ポトゥア、東野健一さんのこと https://tamon.in/s001/ Thu, 31 May 2018 16:12:24 +0000 http://tamon.in/?p=4336

2006年、京都の法然院で個展をひらいた。

きっかけは政治学者の中島岳志さんのすすめだった。まだ横浜に住んでいたころだ。深夜バスで京都にいき、当時大阪に住んでいた中島さんと合流。一緒に大学を歩き、ラーメンを食べ、本屋をめぐり、法然院にたどり着き、梶田住職とお会いした。その流れのまま数ヶ月後、個展を開催することになった。

ぼくにとっては関東以外の、しかも画廊ではない場所でひらくはじめての個展。不安もあったが、はじまってみれば、朝から日暮れまでお客さんがとぎれることのない大盛況だった。法然院はいうまでもなく京都の人気名所。国内外の観光客が、お寺や庭を見物にきがてら、ふらりとぼくの展示を見ていく。とびこみで絵を買ってくれたカナダ人の女性もいた。

それはずっと銀座の画廊で細々と個展をひらいていたぼくにとって、新鮮な驚きだった。なにより美しい庭に囲まれた会場は居心地がよく、毎日心のなかのあたらしい扉が開いて、風が通り抜けていくような心持ちになった。

会期も後半にさしかかったある日、会場にはいってきたおっちゃんが目に留まった。エスニックな服装、刺繍がはいったインドの帽子、背が高く、白髪のひげ、小麦色に焼けた肌。声をかけるまでもなく、

「若いころ貧乏旅行してどっぷりインドにはまりましたわ~」

と全身から聞こえてくるようだ。
彼は絵を一枚一枚丁寧にみてまわってから、ぼくの姿をみつけると、

「きみが矢萩多聞さん?わっかいなぁ~」

とニコニコ顔で近寄ってきた。
それが東野健一さんとの出会いだった。

インドの西ベンガル州やビハール州にはポトと呼ばれる巻物紙芝居がある。神話や民話を描いた細長い紙を、すこしずつスクロールしながら物語を語る。ときにはアドリブをいれたり、歌をうたったり、一枚の紙と身ひとつで縦横無尽にストーリーテリングをする大道の芸能だ。

東野さんは一般企業で働く会社員だったが、40歳にしてポトと出会い、西ベンガル州の少数民サンタル族から絵や技術を学び、日本人の唯一のポトゥア(紙芝居師)になった人。彼はぼくの本『インド・まるごと多聞典』を熟読していて、わざわざ神戸からきてくれた。

親子ほどの年の差もなんのその、すぐうちとけた。インドに触れた時期が同じで、民俗画が好き、興味の対象も似ていた。場所はちがえど、おたがいインドのシルクスクリーン印刷工房といろんなものをつくってきたから、いかにインド人を相手に印刷物をつくるのが大変か知っている。汗と涙の奮闘エピソードを披露しあい、わかる!わかる!と大笑いした。

サンタル族はインド社会のヒエラルキーの底辺にいる人びとだ。かつての農村では牛ふん集めなどが生業だったという。彼らは素朴で純粋なところがあるが、生き抜くためにしたたかで、はっきりしていて、あたりが強すぎる部分もあるという。

そんな人たちとともに暮らし、ポトを学んだ東野さんは、インドのキツい部分と愛すべき部分の両方を知っていて、「ほんとえらい奴らやで!」と笑いながらも、西ベンガルを第二の故郷のように想っていた。

インドで吸収したものを消化し、自ら絵描いた巻物を広げ、お客さんを巻き込みながら神戸弁で語っていく、という独自のスタイルをつくりだした東野さんには、知る人ぞ知る芸人、絵描きとして、日本全国にファンがいた。

関東で公演があるときは、ぼくも何度か見に行った。会っていない時間が長くとも、ぼくの顔をみると東野さんはオーと手を広げ、はじめて会った時とおなじように笑顔をみせた。それは、まるで遠くの国からやってきた移民が、せちがらい東京の街で、同郷人と再会するような喜びがあった。

2012年以降、京都に引っ越してからも、なにかにかこつけて東野さんを京都に呼んでポトをやってもらえないか、いつも考えていた。出町柳で「京のインド楽市」というイベントを企画したとき、ドキドキしながら東野さんに依頼の電話した。

「わ、京都ええなあ。いきたいなあ」

とふたつ返事で喜んでくれたが、あいにく同じ日程で別の公演があり、呼ぶことはかなわなかった。いま思うと、そのあともしつこく第二弾、第三弾の企画を持ちかければよかった。

しばらく間があいて、次にその名前を目にしたのは新聞の訃報記事だった。東野さんは癌を患い闘病生活を余儀なくされ、2017年の年明けに亡くなってしまった。

彼は亡くなる2ヶ月前、神戸で最後の公演をしている。体調的には辛い状態で、控え室と会場を寝たり起きたり往復し、間に他の音楽家の演奏をはさみながらも、見事ポトを演じきったそうだ。その時の映像がYouTubeで見れるが、亡くなる前の人とは思えない。

公演後、東野さんは入院したが、他の患者さんに絵を見せて元気づけたいと、院内に自分の作品を展示して、お見舞いにきた人たちをも楽しませたという。最後の最後まで、東野さんは東野さんだったのだなあ、と思う。

2018年1月、一周忌に法然院で東野さんの思い出を囲む会がひらかれた。住職の梶田さんを中心に、生前ご縁のある方たちが集まった。本堂での読経のあと、部屋を移して2009年の地蔵盆に行われた東野さんのポトの映像をみんなで見て、それぞれの思い出を語った。

印象的だったのは、みな東野さんの出会いのきっかけを不思議とよく覚えていないことだった。

「どう会ったかは忘れたけど、最初のインパクトが大きくて、一度会ったら忘れようにも忘れられない人だった」

と口々に言う。

「まだ東野さんはどこかで生きていて、旅をしながらポトをやっているんじゃないか」

という人もいる。

いつの間にかやってきて、ポトを演じ、人びとに忘れられない印象を残し、風のように去っていく。それは、村むらを歩き、その場その場の物語を語り、人びとに生きる力を与えていったポトゥアたちの姿にも重なる。

ここ数年、ぼくはインドの出版社タラブックスを日本に紹介している。それが縁となり、彼らの絵本「TSUNAMI」の日本語版をデザインすることになった。
縦長の蛇腹折りになっているこの本は、広げると巻物のような一枚の紙になる。ポトのスタイルを踏襲した造本で、紙は手漉き、印刷は手刷りのシルクスクリーン、製本ももちろん手づくりである。

タラブックスでは十年以上前から、ポトゥアの人たちとおもしろい絵本を数冊つくっているから、代表ギータ・ヴォルフさんが来日したときには、東野さんと引き合わせたいとずっと思っていた。
残念ながら、それは叶わなかった。きっと彼ならば飛びあがって面白がってくれただろう。神戸の震災を経て、東日本大震災にも心を痛めていた彼が、この本をどんなふうに語ったか。想像するだけで、胸に熱いものがこみあげてくる。

一周忌のとき、日本語版の訳者であるスラニー京子さんから、もしも、法然院にポトに詳しい人がきたら尋ねてほしいと質問リストが送られてきた。
その日は残念ながら、ポトに詳しい人はいなかったが、みんなで観た映像の中で東野さんは、ほぼすべての質問に答えてくれた。まるで十年近く前に、ぼくがここにきて、映像をみることを知っていたみたい。なにか大切なものを手渡してもらえた気がして、おもわずぽろり涙がこぼれた。

人間っておかしなものだ。いまは、東野さんが生きていたとき以上に、彼の存在を近くに感じる。ぼくは彼と対話するようにして日本語版のデザインをした。
そもそも、「TSUNAMI」というこの本そのものが、数え切れないほど多くの死者たちと対話の上に生みだされたものだ。

絵本のなかで津波は恐ろしい鬼の舌べろとして描かれているが、波にのみこまれていった人たちは、なぜかとても穏やかな顔をしている。この絵巻はかなしみをすくいにかえる、ちいさな祈りの経文のようにもみえる。

この本が無事完成したら、日本のいろんな町で「TSUNAMI」を読む会やってみたい。ぼくもにわかのポトゥアになってみたい。
お客さんをまきこみ、ダイナミックに語る東野さんのようにはかっこよくはいかないだろう。でも、百人いたら百人の「つなみ」の読み方、語り方があるはずだ。

「ええなあ、やろう!みんなでやったらええ!」

東野さんならそういってくれるような気がする。

つなみ Tsunami

ジョイデブ&モエナ・チットコル
スラニー京子訳
タラブックス+三輪舎 2018年9月10日発売

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