いつも声を聞きながら

 人の声が好きだ。仕事机に向かうときは、いつもラジオか音楽をかけている。歌詞のある曲やおしゃべりを聞きながら文章は書けないが、デザインや絵は脳の違う部分が動いているのか、人の声が耳にはいったほうが調子がいい。
ときには、ことばにひっぱられたり、励まされたり、気持ちが高揚したりする。でも、作業に集中していると、ことばの意味はまったく耳に入らなくなる。屋根に響く雨音みたい。ただそこに降っているだけ。

 かつて訪れたとある印刷所に、かろうじて遺された活版印刷部があった。大きな印刷機を前に、長老のような職人さんがひとり。タバコをスパスパ吸いながら、恐ろしいスピードで版を組んでいる。うす暗い部屋には裸電球が灯り、机に散乱する活字、ただよう紫煙、ラジオからは野球中継。これぞ昭和の男の仕事場! まるで映画のワンシーンのようだった。

 印刷所にかぎらず、紙工房や製本所など、ものづくりの現場で、ラジオがかかっていたのを覚えている。テレビはなくてもいいが、ラジオがなくなったら困るという人は多いはずだ。
どうしても聞かなきゃならない内容ではないのに、かけていないともの寂しい。思いがけず、はっとさせられることもある。その存在感は本ともすこし似ている。

 ぼくは本をデザインするとき、下書きやラフスケッチにとりかかる前に、まずその本のテーマ曲を探すようにしている。

 たとえば、1920年代アメリカを取り上げた社会学の本ならば、その時代につくられた曲を聞く。アフリカのエスノグラフィーの本ならば、フィールドとなっている国の音楽を聞く。小説やエッセイでも同じ。邦楽、洋楽、中央アジアのハードロック、イスラエルのポップス、戦前日本の歌謡曲、中南米のカリプソ、北欧のヨイクまで、節操もなくかたっぱしから聞きまくり、本にあう音が見つかるまで、地球を何周もする。

 映画のイントロで、音楽が映像の糸口をたぐりよせるように、音楽を聞きながら手を動かしていると、おぼろげだった本のかたちが輪郭をおびてくる。自然とページの構成が見え、レイアウトが生み出される。
逆に色や書体や紙の手触りから音を感じることもある。そういう意味では、常になにかを聞きながら仕事をしているのだ。

 横浜の実家の近所にラーメン屋がある。子どものころ、「外食」といえばだいたいこの店だった。
昨今のラーメンブームとは無縁。醤油香る澄んだ油スープ、ちぢれた細麺、きざみネギ、メンマ、ナルト、チャーシュー……という昔懐かしのラーメンを「しなそば」という呼び名で、愚直に提供しつづけている。特別なものはなにひとつないが、ときどき無性に食べたくなる。

 店主はラーメンと同じく多くを語らず、いつも黙々と中華鍋をふるっているが、お客さんが会計を終え店をでるとき、きまって厨房の奥からガオーと吠える。

「ありがとうございました」

 といっているようだが、50音ではどうにも表現できない。
アルファベットならばすべての子音にHの音と、濁音が混ざってるような独特の発声。やはり「吠える」というほかない。
気密性の高い部屋のドアを開けたとき、ブワーッと外の空気が流れこむように、厨房の方から、巨大なうなぎのかたちをした音のかたまりが吹き抜ける。
ラーメンを食べたあと、その声に背中をにゅるっと押し出され、店を出て、暗い夜道をてくてく家に帰る。すっかりあったまったからだに、夜風がきもちいい。
そのひとつながりが、ぼくにとっての「ラーメン」という体験だと思っている。

 1日3時間。日本人がスマホの画面を見ている平均時間だそうだ。

「インド映画って長いんでしょ?」

 と半笑いで訊かれることがよくあるが、そんなこという人たちが、こま切れであれ、長めのインド映画を一本観るくらいの時間をスマホに費やしている。年間に換算すると1095時間、じつに45日間の時間を捧げているのだ。
スマホを辞めたら、年間1ヶ月半分の日々が有意義に過ごせる!とは思わないが、この十年ほどでぼくらは「ちいさな画面を見ること」に多くの時間を割くようになったのは確かなことだ。

 スマホの画面で見ることと、生の眼で見ることは、同じようでいて、まったく別の体験のように思える。

 たとえば、ぼくは毎月京都と東京を新幹線で行き来しているが、その車窓から外を眺めるのはひそかな楽しみのひとつである。
マッチ箱のように立ち並ぶ建売住宅、いいぐあいに錆びくたびれた工場、農道にのろのろ走る軽トラック、山のなかのぽつんと一軒家……飛ぶように目の端に流れていく風景をみながら、一瞬にして、そこでどんな人たちがどう暮らしているのか考える。
公園で遊ぶ子を見守るお母さん、立派な瓦葺の屋敷の庭でひとり佇むおじいさん、駐車場の自販機で缶コーヒー片手に一服するお兄さん。ひとりひとりの物語について想像しているうちに、新幹線はあっという間に東京についてしまう。

 映像にせよ、写真にせよ、それをスマホで撮って、あとで見返したとて、おなじように想像をふくらませ遊ぶことはできるだろうか。たぶんできない。やってみるまでもなく、それらはおそろしく「映えない」ものになるだろう。「いいね」も「シェア」もしてもらえない。

 ぼくがラジオを好きで、街の雑踏や、電車で見知らぬ人たちの話し声に、つい耳をすましてしまうのは、その響きや声のしぐさからいろんなことが想像できるからだ。それは往々にして語られたことばの意味よりも味わい深い。

 つぶやきや発音、呼吸、ときには沈黙でさえ、なんて豊かなものを、この世界は用意してくれたのだろうとおもう。

 なんてことのない人間や自然の動作に、赤ん坊がじっと見入って、たのしそうに笑っているように、ぼくもずっと声を聞いていたい。

本とこラジオ

本をめぐって西へ東へ。
2019.12.31 大晦日、
一夜限りのインターネットラジオを配信します。