はじまり

娘があと数ヶ月で、9才になろうとしている。

18才をひとつの区切りと考えるならば、9才はちょうどおり返し地点。ついこのあいだ生まれたとおもっていた赤ん坊が光の速さで育ち、川をとび野山をかけ、ずいぶん達者にしゃべるようになった。
自分でくつしたをはき、ころげることもなく自転車にのる。ひとりでうどんをゆでて食べ、1日何冊も本を読み、ぼくがつまずいた九九の6の段をすらすらそらんじてみせる。

自分が9才のころって、どんな風だっただろう。

1990年といえば、両親とともにネパールを旅したときだ。これがはじめての海外旅行だったが、ほそい路地がおおいカトマンドゥは居ごこちがよく、おおらかでなつっこい人たちにふれ、子どもながらに、ああ、ぼくは生きていていいんだ、とおもった。

あのみじかい旅を境に人生のかじとりが180度変わった、とはおもわない。だが、ゆるやかに潮目が変わったことはたしかだ。

娘があのころの自分とおない年になる。

彼女を見ていると、手におえないほどおおきな物語に、よわよわしく立ちすくむ、幼なき日の自分の姿が重なる。歳月は右から左へすぎさるものではない。時間は燃えつきることのない蚊とり線香のように、うずまき状に進んでいる。

樹木が年輪を重ねるように、39才のぼくのなかには、9才のぼくがひそんでいて、いつでも出会いなおすことができる。ことあるごとに、子どもはそのことを教えてくれる。

「美しいってなんだろう?」

ふいに、娘がたずねる。

どうして、絵や文字を書くのがうまい子と下手な子がいるのだろう。なんで、チーターのように走り、魚のように泳げる子とそうでない子がいるのだろう。だれかれかまわず女子にブス! という男子がいる。お気にいりの服がどろでよごれるのはイヤなのに、コケも花も虫も石も、みな美しいものは、どろのなかにうずもれて生きている。

矢つぎばやにくりだされる問いかけに、ぼくは足を止め、考えて、ろくな答えもだせぬまま、あなたはどうおもう? と聞きかえす。

美しいもの、美しいもの、と口のなかで反すうして、おもいうかぶのはインドの風景だ。それもなんてことのない日常のワンシーンばかり。

落書きの文字、かみタバコであかく染まった壁。毎朝、玄関先に描かれふみつけられる文様。つぼを頭にのせ牛乳を売り歩く女性たちの背すじ。オートリクシャー運転手のくたびれた肩ごしに流れていく街の風景。ココナツ売りの見事なナタさばき、やわらかい果肉をこそげとる手わざ。水牛のそそり立つ角。パローターの生地を丸める食堂の兄さん。鉄なべで塩豆を炒る音、ヤシから実が落ちる音、花売りがぷつんと花輪の糸を切る音、ちり紙交換屋のよび声……路上は音に満ちている。

ぼくはインドの「美しさ」にひかれたのだとおもう。

美しいものは、ときにはみにくく、ざんこくである。とりとめがなく、たよりなくもある。おしゃべりであり、無口でもある。若さであり、老いでもある。身近なところに隠れているのに、手をのばせばけむりのように消えてしまう。ことばにしたとたんに、まったくちがうものに変わりはてる。

いま、ぼくは、流れゆく雲のようにあてどもないものを書こうとしている。

それでも、忘れえぬ美しい光景をあらためて書きとめ、娘とともに「美しいってなんだろう?」ということを考えてみたい。

子どものころ、手におえないとおもっていたおおきな物語は、えたいの知れない怪物ではなかった。目のはしから流れていってしまう、ささいなものたちによって、わたしたちの物語はつむがれているはずだ。

それだけを道しるべに、ここから「美」をめぐる対話をはじめようとおもう。

(「はじまり」より)

なにかを思い出すと、
ほかの光景が思い出される。
つむぎたされた文章は、
いずれもべつべつの話だけど、
どれもすこしずつつながっています。
ここでは『美しいってなんだろう?』
でとりあげた13のテーマを
写真とともに紹介します。

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